今日のご機嫌はいかがでしょうか。
詩的人の、良螢です。
家に帰ったら、家具も机も本も何もかもなくなっていた。
なんて、バラエティ番組の芸人さんがドッキリでやられたりすることがありますね。
でもこれがもし、自分の身に起こったとしたら、あなたはどうしますか?
現実にはほとんど有り得ないことではありますが、少し想像してみるとなんだか怖くなります。
自分の持っているものが全てなくなる。
しかし、人は生まれてくる時、何も持たずに裸で生まれて来ます。
本来は何も持っていなかったわけです。
だとすれば、本当は何も持つ必要がないのかもしれません。
”持つ”ということは、”執着する”ということでもあります。
禅では執着を捨てるということが基本的な考え方としてあるようです。
この言葉もまた、執着を捨てるという考えに基づいています。
無一物中無尽蔵
むいちもつちゅうむじんぞう
すべての事物は本来「空」(くう)なのだから、固定化・実体化したものは何ひとつなく、一瞬一瞬にうつろっていく、とすれば執着すべきものは何もないということです。その「空」「無」の状態において、世界のあらゆるものがかかわっており、存在しているというのが仏教の考え方です。何もなしと思っても、そこにはなんでもある。万物がその無にかかわっていて、支え合っているのです。
●出典
『禅の言葉』永井政之(永岡書店)
たとえモノは失っても、心はあります。考えることができます。
僕が思うに、自分という存在があるので決して”無”ではないと考えたりします。(僕の考えは禅の深さに比べたら浅はかな所にいるのですが。)
禅ではすべてが”無”だと説いたりしますが、そういう”無”の存在を説くことで”有”を浮かび上がらせているような気がします。
たとえば、海の中に入ることで、ほら空気の存在が分かるでしょ?、と言っている感じでしょうか。
家に帰ったら、普段通りにモノがある。
それだけでも喜ぶことが出来ます。
なぜなら冒頭で、帰ってみたら家に何も無いということをあなたもほんの少しイメージしたでしょうから。
”有る”ことに喜びを見い出すことが出来ると思います。
だから、ほんの少し失敗したって、大丈夫なんです。
いろんなところに喜びが転がっていますから、小さい喜びを集めて思考を転換しつつ、失敗を”教訓”に変えていきましょう^^
今日も良い一日を。
良螢