なぜ寒いのは嫌だと思うのかー銀碗裏盛雪


今日のメンタルバランスはいかがでしょうか。
詩的人の、良螢です。








2016年1月末、寒さが厳しくなってきました。

寒いのは嫌なものですね。

この「寒いのは嫌だ」について書いてみたいと思います。







なぜ「寒いのは嫌だ」と思うのか。




それは、暖かくて心地よい環境を知っているからだと思います。

春が来れば快適な気候になることを私たちは知っています。

また、エアコンや暖房器具によって温まった部屋を知っています。





人は対比によって物事を判断することがほとんどです。

「あの人は素直なのに、この人は言うことを聞かない、だから嫌い」とか、「あの人は優しい、この人は厳しい、だから嫌い」とか。






対比で判断するのは正常な心のはたらきだと思います。

ものさしがないと基準を決められず、ふわふわとどっちつかずになる不安を本能的に持っているのだと推測しています。

太古の昔の人類にとって、どっちつかずになって判断しかねることは、すぐに命を落とす危険性があったでしょうから、その名残りと思われます。






しかし、対比での判断ばかりするのは、特に現代においては苦しさを増やす側面が潜んでいる気がします。






対比で判断するということは、「寒いから嫌い」「快適だから好き」、「優しいから好き」「厳しいから嫌い」、という、好きか嫌いかの二極的な判断を安易なかたちで当て込むことになります。

すると、好き嫌い、良い悪い、そうした何の味も素っ気もない分類に終始することになる。

「好き」や「良い」が増える分だけ、「嫌い」や「悪い」も増えていくのです。






寒いのは私たちにはどうしようもありません。

厳しい人の人格は他人には変えられません。





寒いを寒いと受け留める。

厳しいを厳しいと受け留める。





受け留めた中に、もしかしたら何かの発見があるかもしれない。

寒いからこそ空気が澄んでいたり、暖かいことの有り難さを知ることができます。

厳しいからこそ自分への戒めになったり、チカラをつけることが出来たりします。









「嫌い」の中にある「好き」や「良い」ものを見つけることができたら、「嫌い」が減って「好き」がより多くなると思いませんか?

僕は「好き」や「良い」を増やしていきたいと思うので、こんな記事を書いてみたのでした。


















銀碗裏盛雪


ぎんわんのうらにゆきをもる






絵になるような、美しいことばです。一点の錆もない銀の器に清冽な雪を盛るのです。それがどうして「禅のこころ」になるのか。銀椀・銀雪ともに清浄です。この清浄は不浄をどこかに置いての対比的価値です。不浄をきらい、浄を恋うる我執の対象物です。この意味で清浄ではありません。清浄と思う清浄観も分解するのです。美しい景色に執着のない心情を、さらに無執着の心情をも止(とど)めない、カラッとしたこころそのものを表出しています。

●出典
『禅語百選』松原泰道(祥伝社)
















この冬、僕は部屋のエアコンをまだ一度も使っていません。

600Wのハロゲンヒーターだけを使い、あとは厚着でしのいでいます。

それでもなんとかなっています。

そうして思うのは、暖房器具の有り難さです。

たった600Wのヒーターが、本当に有り難くて、背中が温かい。

鼻先は冷たいまま、これを書いています^^










今日も良い一日を。
良螢









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