教える・伝えることは案外簡単じゃないー啐啄同時


今日のメンタルバランスはいかがでしょうか。
詩的人の、良螢です。









あなたはいまの環境の中で、どのような立場にあるでしょうか?



職場であれば、誰かを指導する立場にいたり、取引先や発注先に何かを指示したり。

家庭であれば子どもにいろいろと教えてあげたりしているでしょうか。






誰かに何かを教える・伝えるというのは、とても難しいものだと個人的には思います。

なぜかというと、絶対的な正解がないからです。

正解があるとすれば、十人十色で人の数だけ正解がある、ということは言えるかもしれません。





数学や物理などのように答えが明確にある場合であっても、”教え方”や”伝え方”によっては受け手側が得る答えの”印象”も変わってきます。





中学高校での授業を思い出してみてください。

相性のいい先生が教える教科は答えが出た時に”おもしろい”と感じるし、相性が良くない先生から出る答えは”ただの答え”で眠いだけ。

そんなことはありませんでしたか?





教える・伝える、というのはつまり、単に答えを提示するだけでは不十分な可能性があるということです。

受け手側の理解の進み方、能力、といったことを総合的に考慮して、答えまでの道のりをタイミングよく照らしてあげることが大事ではないかと思います。
















啐啄同時


そつたくどうじ




「啐」とは、いままさに生まれ出ようと雛が卵の中から殻を破ろうとすること。「啄」は、親鳥が外からくちばしで卵の殻をつつくこと。それが同時というのは、生まれ出ようとするものと、それを手助けしようとするもののタイミングがピッタリ合うことを示しています。禅門では、解脱し悟りを得ようとする修行者と、それを導く師の関係をあらわし、とくに「啄」にあたる指導者側が機をとらえて悟りのきっかけとなる一助を与えることをいいます。時機が早すぎてもかえって迷いを深め、時機を逃してしまうと解脱はますます遠ざかってしまいます。重要なのは、相手がいまどんな状態なのかをよく理解してやること。相手を見ず、ただやみくもに外からつついているだけではだめなのです。

●出典
『禅の言葉』永井政之(永岡書店)
















少し話しがそれますが、よく「実家のカレーライスが食べたい」とか「実家の肉じゃがが食べたい」とか、そういったことがありますよね。

僕は、娘さんがいらっしゃる家庭では母親が料理を教え、伝えていってほしいなと思っています。

食事というのは人間が生きていく中でも重要な要素のひとつです。

その家の味が、家族であることの証明書でもあるとさえ言いたいのですが大袈裟でしょうか?

そういった意味でも、家庭の味が次世代に伝わっていくというのは、人間の幸せの継承ではないかと思うのです。





でも、最近は母親が娘さんに料理を教えないという家庭が多いと聞きます。

一人でやったほうが早いからとか、居るとかえって邪魔だからとか、そういった理由をつけて娘さんに教えないとか。

これはとても残念なことだと思います。

どうか面倒くさがらずに、邪魔がらずに、むしろそういったことを楽しみながら、家庭の味を継承していってほしいと願います。

そのときに「啐啄同時」もやって頂ければ尚良い感じですね^^









家庭の味も3世代~4世代伝われば、それは百年残るモノとなるでしょう。










今日も良い一日を。
良螢









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