2016年のスタートはスムーズな心の交流を―挨拶


今日のメンタルバランスはいかがでしょうか。
詩的人の、良螢です。







2016年、あけましておめでとうございます。







昨年はお蔭様で本当に良い一年を送ることができました。







本年も何卒よろしくお願い申し上げます。











型通りのご挨拶になったかもしれません。

でも、型通りというものは案外大事なことだとも僕は思います。




人にはそれぞれ枠を持っていると以前書きました。

違う枠同士がぶつかってしまうことで、いろんな軋轢が生じます。

>>自分の枠に関する記事1

>>自分の枠に関する記事2







いわば”共通の枠”という型を使うことで軋轢を生じることなくスムーズな交流の始まりを可能にすると思うのです。

もちろん型とはいえ、気持ちを込めたほうが良いのは言うまでもありませんが。















挨拶


あいさつ



「挨拶」も禅語のひとつ。文字本来の意味は、「そばに身をすりよせて押しあうこと。」禅宗では、門下の僧と問答をして相手の悟りの程度を知ることを挨拶といいました。人と接するときも、まず押したり、たたいたりして、相手の心の玄関を開いてみないと、心のふれあいは生まれません。挨拶をいいかげんいすることは、人間関係をおろそかにすること。もっと言えば、生き方をいいかげんにしてしまうことにもなります。ひょこっと頭を傾けて口の中でもごもご言うだけ、なんていうことはありませんか?

●出典
『禅の言葉』永井政之(永岡書店)
















新年といえば初詣ですね。

僕もさっそく近所の小さな神社に行ってきました。小さいとは言え地域を見守ってくださる由緒ある神社です。




でもそこで新年一発目の失態をしてしまいました。

神社の参拝の型に、二礼二拍手一礼というものがあります。(ちなみに出雲大社は二礼四拍手一礼)

僕はそれをうっかり最初と最後を逆にして一礼二拍手二礼をしてしまったのです。




そうなるといろいろ狂ってくるのでしょう。

僕は神社では自分のことではなく人のことを願うことにしているのですが、つい自分のことを願ってしまいました。

「八幡」の文字が目に入ったとき、勝負事の神様を祀っているのだなあとふと頭によぎり、勝負事と自分のことが意識の奥で繋がってしまったのですね。




一度神社を出ましたが、気持ちがモヤモヤしていたので引き返し、もう一度参拝し直しました。

やはりそのようにして良かったです。気持ちがスッキリしました。

新年早々やらかしてしまいましたが、人のことを願うことが出来ました。










あなたにはどうかより良い一年を過ごしてほしいと思います。











本年も良い一年を。
そして今日も良い一日を。
良螢










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