遠慮より謙虚ー百不知百不会


今日のメンタルバランスはいかがでしょうか。
詩的人の、良螢です。






謙虚というのは、どういうふうに使われるのでしょうか。



また、似たような言葉に、遠慮というのがあります。



謙虚と遠慮はどのように違うのでしょうか。




「謙虚」
控え目で、つつましいこと。へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れること。また、そのさま。「―な態度」「―に反省する」

    「遠慮」
     人に対して、言葉や行動を慎み控えること。「―なくいただきます」「年長者への―がある」「この部屋ではタバコは―してください」
     辞退すること。また、ある場所から引き下がること。「せっかくですが出席を―します」「君は―してくれ」

    (goo辞書より引用)





    上記を踏まえ、意味の違いを僕の個人的な見解で整理してみます。



    「謙虚」には、芯があり軸がある自分を隠すことなく、でもそれを敢えて棚に上げておき、まっさらな素の気持ちで相手と対する意味が込められている。

    「遠慮」には、自分を閉じてしまって、引き下がってしまうような意味が含まれている。



    これをものすごく簡略的にかつ象徴的に言うとすれば、

    「謙虚」は一歩前に出ながらも控え目であり、

    「遠慮」は一歩後ろに引いての控え目である。

    と、こんな感じでしょうか。




    良い悪いではありませんし、使う場面も違うので単純な比較はできませんが、「謙虚」の比率を自分の中で高めていくことが、何やら大事なことのように思えます。

    「遠慮」が一歩後ろに引くのであれば、「遠慮」の比率が高いと前には進めないことになりますから。










    百不知百不会


    ひゃくふちひゃくふえ




    長い年月を勉強や修行に費やして、ようやくてっぺんまで到達したときの喜びはひとしおでしょう。しかし、そうして苦労して身につけたものにとらわれ、鼻にかけるようでは本物ではありませんね。超一流の人間に共通するのは、おのれに謙虚であることです。スポーツ選手であれアーティストであれ、頂点に立っている人間ほど驕った態度を取らず、けっしてその才能や技倆をひけらかすこともありません。「百不知百不会」とは、悟りを得ても、まるで何も知らない役立たずの人間のように超然としていること。修行で得た知識や理解したことを抱え込まず、分別を超越し、澄んだ境地にいるということです。

    ●出典
    『禅の言葉』永井政之(永岡書店)









    「謙虚」も「遠慮」も日本人にかなり特化したような概念のような気がします。

    これは恐らく、江戸時代の徳川体制の名残ではないかと推測しています。

    身分の差がはっきりと分かれていた社会構造でしたので、身分が下の人間は上の人間に気を遣う必要があったわけです。




    今はもう江戸時代のような身分の差はなくなったので、「遠慮」から一歩踏み出して「謙虚」押しでいきたいところですね^^








    今日も良い一日を。
    良螢







    0 件のコメント :

    コメントを投稿

    [PR]