禅の言葉ー両忘(りょうぼう)



いかがお過ごしですか?
あなたの詩的メンタルバランサー、良螢です。





唐突ですが、禅の言葉というのは、なかなか深いですよね。


短い言葉の中に、いくつもいくつも考えされられることが入っています。


これはまさに詩的!


いや、実際に昔の禅僧は詩(うた)にして書き残してもいます。


ということで、これから禅の言葉を随時紹介していきたいと思います!


今のあなたにフィットする言葉が見つかりますように(v v)






さて、今回取り上げる禅の言葉は「両忘」です。「りょうぼう」と読みます。









両忘

りょうぼう





好きなの?嫌いなの?イエスかノーか?真偽、善悪、苦楽、美醜、幸不幸、生死など。この「両方忘れる」という禅語は、そうした二元的な考え方をやめてみろと言っているのです。本来、世の中の物事すべてが白黒はっきりするわけではなく、ことの善悪など、すぐに正しい判断が下せるものではありません。曖昧なこともそのまま受け入れ、ただ精一杯にいきてみましょう。ほどよく方の力も抜けて、生死や苦楽にとらわれることのない、おだやかで清々しい日々がやってきます。

●出典
『ふっと心がかるくなる禅の言葉』永井政之(永岡書店)







白か黒か、赤か青か、イエスかノーか、好きか嫌いか、生きるか死ぬか、苦しむか楽しむか・・・。


どっちでもいいじゃない!


あるいは、


どっちがいいってことでもないじゃない!


というのがざっくりした良螢的解釈です。








どっちか選べるならそれに越したことはないと思います。


でも、そう簡単に選べないときもある。


どっちかを選ばなければならない、と心がとらわれてしまうと、悩みに悩んで結局はなにも選べずに終わるか、腑に落ちないまま進んでしまいませんか?


どっちかを選ばなければならない、という観念を捨てされるかどうか、いまは白でも黒でもない、いまは好きでも嫌いでもない、まずはそう言えるかどうか。








『禅語百選』松原泰道(祥伝社)によると、生死を例に説諭しています。


「生と死とを対比するから、苦と楽の両頭が持ち上げられるのです。生きるとは精いっぱい生き、死なねばならぬときは大いなるものに任せきるのを、生死を忘れると申します。すると、生死は事実でありながら、生死に振りまわされない自由が得られるのです。」


また、こうも述べています。


「生きるときは、生と死とを対比せず、生きるとも言わず、生きるとも思わず、ただ、生―生―生―生と一段論法で進んでゆくのです。」「死のときも、貧のときも、富めるときも、病めるときも、同じ一段論法で切りこみ、徹し切るのです。このとき、生にあって生を忘れ、死にあって死を忘れます。」







松原氏の仰る「両忘」とは、対比するどちらかを選ぶのではなく、今ある状況を事実として受けとめ、そこに精いっぱい自分の出来る限りを尽くす、ということではないかと察します。


たった二文字の言葉ですが、深い。。。








今日も良い一日を。
良螢

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